2014年5月24日土曜日

山の上のてんぷら

天ぷらの職人を輩出している有名な天ぷら店があるとのことで今日は、

知る人ぞ知る、東京御茶ノ水、山の上ホテルにある天ぷらと和食の見せ「山の上」に立ち寄りました。

さっそく頼んだのが、一番安い5,500円のこれ。

てんぷら定食(イ)の二 というもの。内容は、

海老(3)、魚(3)、野菜(4)、赤出し、御飯、香の物、抹茶アイスクリーム






さて、もうちょっと食べたいのがあったので、紋甲イカを追加しました・・・
  
帰りにびっくり、この追加、なんとこれだけで1,500円!!!
え、マジすかあーー!?(泣笑)
あまりにも高すぎて笑ってしまいました。爆




 その後は、神田の古本屋さんで凄い文書を見つけたのです・・・

2014年5月21日水曜日

塾超トークライブはふとした思いつき!

単なる思いつきで、「塾超トークライブ」というものを始めた。
そして、今後も全国を周って行く予定。

第一回横浜、第二回名古屋とかなり内容の濃いものになったのには
自分でもちょっと驚き。
第一回横浜にて














第二回名古屋にて
会場では、特殊コーチングの「おまじない」を施しておいたので、ほぼ全員の頭脳の書き換えが完了。
終わった時には、来た時と全く顔つきも変わり、大きく意識を変えて教室から帰って行かれました。


今後は、第3回西茨城(結城) 第4回いわき 第5回青森が決定。



2014年5月11日日曜日

名古屋ってこの独特の雰囲気がいいね。


名古屋ってこの独特の雰囲気がいいね。


名古屋でのトークライブが終わった翌日、覚王山に遊びに行きました。
そこには、とっても素敵なものが、沢山僕を待ち受けてくれていました!
 
日泰寺までの道の並ぶ沢山のお店を楽しみました。
 
1年半ぶりの名古屋とっても良かったです。
印象深く心に残ることがたくさんあり満喫しました。
 
また、。ぜひ来たいと思います。
名古屋の皆さん、またね!

お釈迦さまの骨が安置される街 名古屋・日泰寺

名古屋ライブのあと、千種区の覚王山の日泰寺に立ち寄りました。
通りに入ると、いきなり、この団子に目がいってしまいました。
団子だけでは物足りず、店に入り込んでおでんと焼きそばを注文。

通りの突き当りに、見えた、釈迦の骨(仏舎利)がある日泰寺へ到着!
日本のどこの宗派にも属さない、日本とタイの混合で日泰寺。
 門からいきなり違う、険しい顔で怒ってくる、金剛力士像などと違い、釈迦の弟子である、アーナンダが、優しく迎えてくれる。
 境内も素晴らしい。明らかに中国などの文化の影響が無い雰囲気がする。



2014年5月10日土曜日

お待ちどうさま!名古屋トークライブ!


お待ちどうさま!名古屋トークライブ!

 
16:00ジャスト!
森先生の紹介から、第1部の保護者向けのトークライブ開始。
 
今回は、前回の横浜とはちょっと違って熱弁からスタートしました。
 
そして、徐々に、緊張もほぐれ、たくさんの相談、質問が寄せられました。
 
今回も、全ての質問に即答で具体的に答えてみました。
とても楽しかったです。
 
1部終了後、
そして第2部の生徒向け18:30スタート
 
子供達へのトークライブ、あっと言う間の1時間でしたが、いつものように、一気に子供達は、塾超ワールドに引きこまれました。笑
 
途中、口琴の演奏。最後に、塾超の作曲の幻のAKBの曲を披露しました。

2014年5月7日水曜日

ふらっとスリランカ

つくばにスリランカの寺院があるというのを偶然知ったので調べてみると、なんとつくば研究室から10分程度の場所にあるではないか! 

名前は「讃仏陀楼迦寺」(さんぶったろうかじ)
そこに、スマナサーラ長老も来たことがあるそうだ。

発見”!すごく民家の中にあってびっくり。
 敷地に入って行くと、懐かしい「ガン見」の2人が出てきて、何語で話せばいいか迷ったが、日本語はダメで、英語で話すが、ちょっとしか通じないようだ。
 
どうやらスリランカから遥々、交代でこの仏像を作りに来てるようだ、すごい手作り。
 こちらは、なにやらセメントをぺったんぺったん、滝を作っているようだ。
 帰ろうとすると、「お茶!」と、部屋に案内される。おもてなしに、クッキーのカンカンと、バナナと紅茶が出された。手にはポカリ・・
30分くらい話しながら、スリランカにおいでよ!と、みんなで寄ってたかって誘われ説明を受ける。最後に、カレンダーのおみやげを頂く。
 このようなことを、普通日本人が、されたら、後から何かあるとか、宗教にいれられてしまうとか、妄想を抱くのだろうが、何せインドで修行しているので、この方々の心からの「おもてなし」を、素直に受けられたのだ。インド、ネパール、スリランカなどの人に接すると、本当に心の純粋な人たち、それに比べ心の汚れた僕たちを痛感させられてしまう。